聶永真

Aaron Nieh | アーロン・ニエ

グラフィックデザイナーへの道のり

そもそもの話になりますが、なぜグラフィックデザイナーになろうと思ったのか教えてもらえますか?

アーロン 高校時代は機械製図の勉強をしていました。職業学校(日本の専門学校に相当)です。その後台北の大学に受かり、工業デザインの勉強を1、2年くらいしていたのですが、興味が薄れ、大学を受け直して、ビジュアルデザインへ移りました。

なぜ工業デザインの興味が薄れて、グラフィックにしたんですか?

アーロン 僕は小さい頃からただ絵を描くのが好きだったんです。何となく機械製図科に進み、製図はそれなりに楽しんでいましたけど、機械製図の延長で大学では工業デザインを選びましたが、通っているうちに自分はグラフィックデザインのほうに惹かれていることに気づいてきたんです。街中や他人のグラフィック作品を見るたびに、ドキドキするような何かを感じていたし、一方で工業デザインの勉強はあまりやる気が出ず、モヤモヤした時期が続きました。ここは早めにグラフィックのほうへコースを変えるべきだと思い立って大学を辞め、受験し直しました。

グラフィックデザインのコースに入ってみて、実際楽しかった?

アーロン 心からその開放感を噛み締めていました。大げさかもしれないけど、僕の人生にもう悔いはないと思えるほどでした。また高校時代の話に戻るんですが、放課後バス停でよく中学時代の友達と鉢合わせることがあって、そのうちの何人かは広告デザイン科または美工科に行ったので、彼らはよく画材を持ってキャンバスバッグをぶら下げていました。カッコいいなと内心思いながら、僕はただただ羨ましくその光景を横目で見ていました。その後、大学でグラフィックデザインに移ったことで、僕は自分があの頃羨ましかった気持ち、自分がかつて失っていたものを全部取り戻すことができました。自分でも本当によく勉強したと思います。放課後も、大学のスタジオなどでずっと課題に取り組んでいましたし、日々の勉強で充実していました。最初の大学では遊び呆けていたので、もう思う十分遊んだなと。

卒業後はどのように就職したんですか?

アーロン 大学院に進んで、マスコミュニケーション寄りの研究室にいました。僕が院生の頃、大学の卒業制作でつくった本を出版することになって、レコード会社や出版社から少しずつデザインの仕事をもらうようになったんです。働きながら大学院に通っていましたが、1年少しで退学し、フリーランスとして働きはじめました。

大学を終えて、フリーランスで、その後、すぐに人気が出たんですか?

アーロン 院生の頃から、ちょっとずつですがいろんな仕事を受けていたので。最初の2年は小さな仕事ばかりでした。一番大きな転機となったのが、フリーランス2年目に、ジェイ・チョウ(周杰倫)のCDアルバム『葉恵美』のデザインを手がけたことです。そのアルバムをきっかけに、いろんなところから声が掛かるようになったんです。

急に知名度が上がっていきましたが、ただそれが僕自身にとっていい時期だったかというと、そうでもありません。自分の作品が洗練された、成熟したデザインだと感じるようになったのはここ4、5年です。その前のものはある程度満足できるくらい。そこそこの評価ももらってはいましたけど、厳しい芸術的基準を満たせてなかったと思います。自分らしさや自分の好きなものは何かを模索していた時期に、大量の仕事を抱えていたので、ゆっくりと考える余裕もなく仕事ばっかりしてたんです。

自分の満足できるような仕事になったという作品やきっかけっていうのはあるんですか?

アーロン 5年前に自分の最初の作品集を出して、その後すぐ手がけたジェイムズ・リン(林宥嘉)のアルバム「感官/世界」がゴールデンメロディー賞を受賞しました。そのとき作品集を振り返ってみて、賞味期限というのか、デザインの鮮度切れを感じたんですね。もっと自分に厳しくなければいけないとすごく反省しました。

自分の置かれている立場、次は何をつくるんだろうと注目する周囲の目もあったし、台湾でも優秀なグラフィックデザイナーたちが頭角を現してきていた。そんななかで、僕自身にも緊張感が出てきた。過去の作品はもう手を加えたりすることができないけど、これから僕がつくるすべての作品が、時を経ても色褪せて見えないものであってほしいと思っています。